体験談


2011年市民公開講座

若年性線維筋痛症親族代表発表原稿

病気と向き合ってきた5年間を発表させていただいた原稿です。

少しでも皆様のお役に立てれば幸いです。

ぜひ読んでみてください。

 

2011年 秋 市民公開講座にて

 

今日はもうすぐ18歳になる娘のことについてお話しさせていただきます。

 

彼女は14歳の時に線維筋痛症を発症しましたが

元々は小さい頃から風邪ひとつひかない、呆れるほどの健康体で、

スポーツも勉強も大好き。

学校も全然休まない一言でいうと元気な明るい子でした。

 

けれどその日は突然やってきました。

娘が中学二年になったばかりの 4 月のはじめ、職場に一本の電話があり

 

「爽ちゃんが剣道部の練習中頭を打って救急車で病院に運ばれた!!」

と知らされました。

元々おっちょこちょいで、ケガの多い子でしたので私は

「とうとうやったか・・・」 位の気持ちで病院へ行き、案の定

「たいしたことはない。レントゲンも CT も大丈夫。」

とのことで、そのまま連れて帰りました。

 

ところが、次の日になってもその次の日になっても

「体中が痛い」

と一日中うめき声を上げ、泣いて泣いて起き上がることもままならないような

状態になりました。

「ムチ打ちかな??」 と思い、知り合いの接骨院へ連れていきましたが

鍼を打ってもお灸をしても、何の治療をしても一向によくなりません。

一週間、10日・・と過ぎても全く良くなる気配がなく、近くの整形外科へ

連れていってみました。けれど痛みの原因がわかりません。

そこからいわゆるドクターショッピングが始まります。

 

大きな医療センターへ行っても異常なし。

総合病院へ入院していろいろ検査をしても異常なし。

そこでは登校拒否を疑われ、精神医療センターへ回されました。

小児精神科の先生は

「これは本当に痛くて、痛みに心が負けている状態です」

と言われ、安定剤等が処方されました。

けれど、色々なお薬を飲むたびにひどい副作用に悩まされました。

めまい、ふらつき、一日中頻繁に起こる過呼吸・・

そして痛みは一向に収まらず、一日中「痛い痛い」とうめいて寝たきりに

なったような娘を抱えて、私は何がどうなっているのか??混乱したまま

ありとあらゆるつてを頼り、色々 な病院に足を運びました。

障害児専門の先生を訪ねたり、

漢方の先生に診てもらったり

大学病院の整形外科の先生に診てもらったり

それこそ霊媒師のような人のところへ行ったり・・

 

けれど、どこへ行っても痛みは変わらず

一日中「痛い痛い」と呻く娘の声に、兄妹や手伝ってくれる私の母も

大分参ってきていました。

 

なぜ、起き上がることもできないほど痛いのか?

なぜ、どこへ行っても異常なしなのか?

出口のないトンネルへ入ってしまった気分でした。

 

このまま一生寝たきりなのかな?・・と思ったりもし始め三ヶ月が

過ぎた頃、知り合い が

「リハビリセンターに勤めているので、よかったら来てみないか?」

と声をかけてくれました。

幸い整形外科医のセンター長に診ていただくことができ、そこで初めて

「線維筋痛症ですね」

と言われたのです。

 

実はその大分前、総合病院の小児科の先生に

「線維筋痛症という病気があると聞きましたが・・」

と尋ねたら

「小児に線維筋痛症はありません。あれは大人がかかる病気です。」

と、きっぱり否定されていたので、私は混乱しました。

とにかく専門医へ・・とのことだったので、まずはひたすら調べてみました。

線維筋痛症とはなんなのか??ネットでは怖い話しか出てきません。

そして、さいたまの家から通える範囲で線維筋痛症を診てくれるところを

調べ、FAX で問 い合わせてみました。

 

返信をいただいた中で

「お子さんなので、横浜市立大学附属病院小児科の横田先生を訪ねなさい」

というご紹介をいただき、藁をもすがる思いで問い合わせてみました。

「遠方なので入院の準備をして来てください」とのことで

とにかく入院の支度をして車で向かいました。

3時間かかってたどり着き、教授のもとへ通され、何人もの先生が見守る中

「線維筋痛症だと思うけれど、大丈夫だよ」

との言葉に、病名が付いたことと先生の笑顔に心底ホッとしました。

 

そのまま入院したのですが、入院してみて娘の体がとても痛くて弱っている

ことに 改めて気がつきました。

 

利き手の右手が使えません。

握力も全然なくなり スプーンを持ったり、鉛筆を持つための装具を

作ってもらわなければなりませんでした。

大きい音にも異常な反応を示し、子供たちの声や泣き声にいつもビクビク

していました。

入院が長引くことも予想され、院内学級へ転校して少しずつ勉強をしながら

リハビリ、検査、カウンセリングを受け、お薬を試しながら3ヶ月ほど

過ごしました。

 

一旦退院という話になりましたが、正直状態はあまり変わっていませんでした。

ただ、痛み止めに飲みだしたお薬が少し効いているのかな?という感じでした。

 

その上、退院のころ転びかけて左腕を軽く捻ってしまったのをきっかけに

左腕に「CRPS= 複合性局所疼痛症候群」を発症してしまいました。

腕がどんどん赤く腫れ上がりそれこそ風が吹いても痛い状態でした。

苦しむ娘に

「線維筋痛症の他にさらに痛むのか・・・」

と、私は唖然としてしまいました。

その左腕はそこから2年くらいほとんど動かすことができませんでしたが、

骨萎縮が見られてきたので、放っておけず悲鳴を上げるようなリハビリを

経て今はかなり改善されてきています。

 

そして、退院したら今度は中学校へ戻ることを考えなければいけません。

私は中学校の先生方と何度も話し合いました。

学校での事故がきっかけだったので、学校も協力的で担任と教頭、

養護の先生が娘の主治医のもとへ出向いて話を聞いてくださいました。

校長先生は、教育委員会に掛け合って補助の職員を増やして 娘に付けて

くださいました。

 

また、学年だよりとして娘の特集号をくんでくださり、病気のこと、

接する上での注意点 等、学年全体に知らせてくれました。

同じ姿勢を長時間保つことができないので、授業中に突然動き出したり、

すぐに脱水症状 のような状態になるので常に水筒を持って飲み物を

飲んでいたり・・ということ。

特に痛 みが強いので娘にぶつかったりしないように・・などです。

学校や周囲との意思の疎通は本当に大切だと思います。

 

周囲の協力のおかげで、無事に3年生に進級することができました。

担任の先生はそのままで、娘の面倒を見て下さることになり、

クラス替えも娘に配慮して くださったと思います。

 

そして目の前には高校受験が迫ってきていました。

普通高校に進学できるのか・・1年見送るか・・通信高校にするか・・

担任の先生と何度も話し合いました。

そして先生の勧めで娘が通いやすく、成績的にも受験しやすい高校を

受験してみようということになりました。

娘もその気になり一生懸命勉強しだしました。

ところが、受験のプレッシャーからかなかなか取れない痛みのせいか、

娘の心に少しずつ ヒビが入り・・とうとう折れてしまったのです。

 

娘は拒食症になりました・・。

ほとんど何も食べずに勉強だけしていました。

体重はみるみる落ち、47kgくらいあったのに30kg近くまで

減ってしまい、月一回 の診察日に

「これは帰せません」 と、そのまま入院になってしまいました。

「線維筋痛症の子が摂食障害になることはあるんだよ」・・・と

言われましたが、 会話もままならず、骨と皮だけのようになり、

髪も抜けて薄くなってきてしまった娘・・ お風呂に入れるのも

辛かったです。

 

「命にかかわるから食べなさい!」 と先生に言われても食べることを

拒否し続ける娘を見ていて、 私もある日何かがプツンと切れました。

「そんなに死にたいのなら、お母さんが一緒に死んであげるから、

屋上から一緒に飛び降 りよう!!」

・・と娘の手を引っ張って屋上へ連れていこうとしました。

けれど、どんなに引っ張っても娘はベッドにしがみついて動きません・・

「あぁ。この子は本当は死にたくないんだな」

と、私も我に帰りホッとしました。

 

その頃から私は皆で楽しいことをドンドンしていこうと、遊ぶ計画を

立て始めました。 娘には兄と妹がいますが、二人とも留守番とお手伝い

我慢ばかりの日々。

娘にも辛いことばかり起こり過ぎたな・・と思ったからです。

少しでも笑顔を取り戻すことができたらいいなと、辛い治療を経て体重が

少し戻ってきた頃 日光への1泊旅行へ連れ出してみました。

「私は大丈夫!」

と言っていた娘は、実際心臓も弱っていたので体力もなく息切ればかり・・

泣く泣く歩いている感じでした。

自分で自分がとても弱っていることに気がついたようで、その後少しずつ

体を戻していきました。

けれど結局高校受験は諦め通信高校への進学を決めました。

 

中学校の卒業式1週間前に退院することができ、娘は無事に卒業式に出席

することができ ました。まだステージへ上がるのは危なかったので

卒業証書は校長先生がステージから降 りてきて娘に渡してくださいました。

そして、先生方ひとりひとりから温かい言葉をいただき、とても素敵な

卒業式になりました。

 

翌年は、腕の傷がどんどん広がっていく原因不明の症状に悩まされ

(皮膚が腐っていくような・・ひどい臭いを発しながら傷が腕をどんどん

移動していった のです)形成外科へかかりながら、関西方面へ旅行に

行きました。

途中出血が止まらなくなり、腕から血をしたたらせながらのおっかな

びっくりな状態でしたが・・楽しむことをがんばってみした。

 

そして私は漠然と

「楽しいことをすると、元気になるんだな」 と、思い始めました。

また翌年、腕の傷は治まったもののひどい痕が残り・・

直射日光はダメ、疲れすぎるのもダメ、と言われていましたが 私は真夏の

沖縄旅行を計画しました。

けれどまず、カチコチになった首や肩が飛行機の気圧の変化に耐えられず、

沖縄に着く頃には周囲の人に心配されるほど真っ青になっていました。

その後は暑さにやられ・・ホテルに入ったものの海へ近づくこともできません。

けれど

「沖繩に来れた!!」 という高揚感から、だんだん元気になった娘は

少しずつ海に近づき、夕方には海に入るこ とができ・・・すっかり元気に

なってしまいました。

翌日には船で海へ出て、シュノーケリングを楽しみ。

しっかり食べてたくさん遊んで ・・・どこが病気??・・・と、見違える

ほど元気になりました。

 

そして沖縄から帰ってきて、娘は自分で楽しいことを見つけ始めました。

歌やダンスが好きで、イベントへ行って倒れて救急車で運ばれたりもしましたが…

ダンスのグループに入れてもらい、動かない体を無理やり動かすようになり、

震災の避難所へボランティアに行ったりしていました。

私はハラハラしながら、できる限り好きなようにさせてみました。

何度も大ゲンカもしましたが、昼間はダンスや友人と遊ぶのに一生懸命。

夜は受験のための塾へ行き体力ギリギリの生活をしています。

 

塾帰りに動けなくなって交番のお世話になったり、知らない人に助けて

もらったりしなが ら大学に入るため一生懸命です。

自分を追い込みすぎないように頑張って欲しいです。

 

お薬はいろいろ試しました。

ペインクリニックへ通ったり、ブロック注射を毎日のようにしたりも

しましたが、結局今は常用するものではなく、頓服の鎮痛剤をうまく使う

ようにしています。

 

私にできることは、全てを受け入れた上で見守ることだな・・と思って

います。 娘の体は今も痛いし、突然発熱して解熱剤も効かず寝込んだり、

夜眠れなかったかと思うと、日中起きていられなかったり、いきなり

どこかが腫れて痛んだり、腹痛で身動きが取 れなくなったり、不調の

オンパレードですが、 それも全部受け入れて、さらりと接しています。

彼女は

「心配してくれない・・・」 とぼやいていますが。

全て自己責任で動くこと、家のルールを守ること、約束です。

その上で楽しいことをどんどんして笑顔でいられるよう日々頑張っています。

子供は笑顔が増えれば痛みや不快な症状が減る!と私は思います。

これからもみんなが笑顔でいられるよう、楽しく過ごしながら病気と

付き合っていければ いいなと思います。

 

ありがとうございました。

 

難波 昌美

 

その後・・・

上記手記は、まだ完治していない時のものです。

 

その後・・

娘は大検を取得し大学に進学。大学進学と同時に一人暮らしをし、在学中にイギリスへ留学もしました。

 

薬や病院とは無縁の4年間の大学生活を満喫して、今年からは社会人です。

 

社会人1年生ながら、夜勤などもこなし週末は趣味に没頭して体を動かしているようです。

(家に帰っては来ず、気ままなひとり暮らし満喫してます。)

 

線維筋痛症の名残のようなものは微塵もありません。

「完治した」と親子で認識しています。

 

何がどうなったら完治なのか?

先日当時の主治医だった宮前先生とも話しました。

 

私は本人が「治った!」と思ったら完治だと思います。

人間ですから疲れるときもあります。

体が痛むときもあります。

それを線維筋痛症と結び付けるか?関係ないと思うか?

 

・・・できたら「関係ない」と、

まず親御さんが思ってあげて欲しいです。

信じてもらえたら、お子さんも自信になります。

実は私はしばらく信じてあげられなくて、娘に激怒されました  (^^;

 

今、目の前にある事実は一つだけ。

元気いっぱいの完治した娘の姿です。

それが事実。

そして、他にも治っていった子が何人もいます。

 

 

お子さんの治る力を信じてあげてくださいね!